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2008年12月

2008年12月18日 (木)

なんだろうなぁ

MEの親友【M】がMEのことを好きなんじゃないか、という噂がたっております。しかも、生徒だけでなく先生達の間でも。
あ、もちろんMは女の子ですよ。
ME個人としてはまぁ嬉しいんですが、問題がありまして。
Mは席が隣で授業中にも話したり相談に乗ったり愚痴聞いたりする仲ですが、Mは芸能関係者からスカウトされるくらいの美人で、付き合って半年の彼氏がいるし、どうみてもラブラブ。

長い間付き合っていれば、きっと浮気もあるかもしれないですけど、全く尻軽さもない女の子なのに…
もしかしたら、授業中に【好き】と言われたことにあるかもしれませんけど、本当に好きならみんなの前で言うわけないし…

なんだろうなぁ。女の子は謎だ。

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2008年12月15日 (月)

もうすぐ終業式!

大変です。校長の話は長期戦の構えが必要で……
うちの学校の名物ですわな。いつも1時間は話してる……
もちろん、毎年倒れる人がでますが、今年は特別な終業式。
高校生活最後の終業式です(たぶん)。
思い返すと色々あったなぁ……
数え切れないほど先生に怒られ殴られ、他校や同じ学校の生徒と取っ組み合ったり。
恋したり、同じクラスの美人さんと互いに浮気し合う仲だったり(はい、最低です。でも流したってください)。
部活は頑張らないけど、体育祭は、担任の「体育祭、お前らバカチンどもには最高の見せ場だ。体育祭は祭りではない、【戦争】だ」という訓示のもと、死ぬ覚悟で頑張りました。

つまらないこともありましたが、大学は決まったし、思い出は溢れ出さんばかりです。卒業したくないなぁ……

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2008年12月 7日 (日)

我流“その時、歴史が動いた”【カルタゴの名将ハンニバル 後編】

バグブラデスの敗戦後、ハンニバルはカルタゴ本国に到着、軍備の再編を図ります。ハンニバルは、生き残った直属部隊2万、士気の低い敗残兵1万2000、召集されたばかりの新兵1万8000で編制されました。

そして、スキピオは軍備を整え、戦術の要である騎兵も大量に保持し、カルタゴのザマの地でハンニバル率いるカルタゴ軍との戦いに臨みました。

紀元前202年、ザマの決戦。中国の二大英雄である項羽と劉邦が決戦を行ったのと同じじ年、ヨーロッパの二大英雄であるハンニバルとスキピオも戦場でぶつかりました。

ハンニバルの象兵突撃は回避され、第一陣が突破されました。あっという間に味方の部隊は次々と撃破されてゆき、最終的に第四陣の直属部隊だけが奮戦、3倍以上のローマ軍を相手に多大な犠牲を強いながらも、全滅しました。ハンニバルは僅かに生き残った数人の部下を連れて本国へ生還、ローマとの和平締結に向けて励むことになります。

戦後にも、ファンタジックなドラマがありました。
戦争を終え、ハンニバルは将軍の地位を退き、スフェス(最高行政官、現代で言うところの大統領)に選出されます。この大抜擢は、カルタゴの歴史上、前代未聞の出来事で、“敗北したカルタゴ軍最高司令官は処刑または国外追放される”という、カルタゴの慣例を完全に壊しました。
その理由は2つあるものと考えられます。
1:敗れたにも関わらず、民衆からは絶大な人気があったため
2:ハンニバルの優秀な行政手腕と天才的な軍事手腕が国外へ流出するのを、政治首脳陣(貴族達)が恐れたため

彼は巨大な権力を振るい、貴族達の不正を強制的に正して行きました。
それで被害を受けた貴族達は、かつての敵であるローマに讒訴、ローマは調査団と暗殺部隊を送り込んだと言われています。

身の危険を察知したハンニバルは、
「どんな強国も、永遠の繁栄を享受することは叶わない。外敵からの攻撃がなくても、内部の腐敗によって国家は滅びる。外見に異常がなくても、内臓疾患によって人間が死ぬように……」
という言葉を残し、シリア(現在のエジプト周辺)に、次いでビテュニア(現在のトルコ周辺)に亡命、軍事顧問としてシリア、ビテュニア国王お抱えの参謀団の一人となりますが、結果的にはローマを呼び込んでしまいました。
亡命先で、ハンニバルはスキピオに会ったと言われています。
そこで、スキピオはハンニバルに聞きました。
「この世界で最も優れた将軍は誰でしょうか?」
「一番はアレクサンドロス大王、二番はピュロス、三番に私だ」
 当然、と言いたげにハンニバルは答えました。
「では、あなたが私に勝っていたら?」
「上位二人を飛び越え、私が一番になっていただろう」

紀元前183年末頃、ヨーロッパ全体を揺るがした希代の名将ハンニバルは、自分の住む館が完全に包囲されていると知った時、服毒自殺を遂げました。
最期の瞬間、彼は次のような言葉を残したと言われています。
「一人の老人の死を待ち望んでも、なかなか叶えられそうにないな。ならば今こそ、ローマ人に、その永遠とも思える心配と渇望を満たしてやろう」

イタリア半島に進撃し、強大なローマ軍を撃破したことは、ローマ人の驕りと政治腐敗を転換するキッカケになりました。
戦後、ローマ側の名将スキピオ・アフリカヌス(“アフリカを征服した者”の意)はその軍事的英雄の名声が仇となり、危険視された挙げ句に政界から追放され、紀元前183年初頭、奇しくも、宿敵ハンニバルの死と同じ年に亡くなりました。

……両雄、並び立たず。二人の英雄が戦った時、必ずどちらかが倒れるというものですが、今回ばかり二人とも倒れてしまいましたね。
英雄のドラマチックなストーリー。正に歴史の醍醐味でしょう。
それがハンニバルとスキピオの対決にありました。偶然か否か、二人は同じ年に亡くなり、正に人間ドラマが展開された訳ですが、ハンニバル死後も、その影はローマにつきまといます。

……その後、カルタゴはローマとの第三次ポエニ戦争の結果、勇戦むなしく滅びました。街は徹底的に破壊され、女性はレイプされ金持ちの肉体奴隷になり、兵士や男達は虐殺の果てにあらゆる方面の奴隷として売り出されたといいます。

巨大な街も、今は僅かな遺跡が残るのみとなりました。ローマは、カルタゴというより、ハンニバルに対する恐怖を少しでも消し去ろうとしたのでしょうか。

スキピオの孫(養子の息子)であるグラックス兄弟は、ハンニバルとの抗争で傷ついたローマを再建するために、疲弊した民衆のために奔走します。しかし、ハンニバルが貴族達に裏切られたように、民衆の人気を得た兄弟は貴族達の謀略によって亡くなりました。
かくしてローマは、もう一人の英雄を待ち望むことになります。

【ユリウス・カエサル】を……

このコラムを読んでくださった方、ありがとうございました。

【地図資料:塩野七生著『ローマ人の物語 ハンニバル戦記 中・下』】

【参考文献:長谷川博隆著『ハンニバル 地中海世界の覇権をかけて』、塩野七生著『ローマ人の物語 ハンニバル戦記 中・下』、ベルナール・コンベ=ファルヌー著『ポエニ戦争』、ゲルハルト・ヘルム著『フェニキア人 古代地中海民族の謎 』】

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我流“その時、歴史が動いた”【カルタゴの名将ハンニバル 前編】

カルタゴの名将、戦略の父、歴史上最も偉大な軍事指導者の一人という、数々の美辞麗句で讃えられる、古代地中海の英雄ハンニバル・バルカス。初回は、この人物に迫ります。

紀元前219年、ハンニバルは、何十年も父兄子の3代で養ってきた強力な傭兵軍を率いて、イベリア半島のローマ同盟都市サグントゥム(現:スペイン=サグント市)を攻撃しました。8ヶ月による攻防の結果、カルタゴ軍はサグントゥムを陥落させ、ローマからの宣戦布告を受けました。

アフリカ北西部からイベリア半島を支配するカルタゴとイタリア半島周辺を支配するローマ共和国の戦い、第二次ポエニ戦争が始まりました。これは通称『ハンニバル戦争』とも呼ばれ、あくまで、この戦争の主役がハンニバルであったことを物語る史料として知られています。

戦争開始直後、ハンニバルは時間を無駄にせず、恐るべき速度で北進、好戦的なケルト人部族が支配するガリアの地(現:フランス周辺)に踏み込みました。彼は現地の部族を金銭あるいは武力で懐柔していき、着々と軍勢を進めましたEuropebc218

ハンニバル率いる6万のカルタゴ軍は、アルプス山脈の近くに到着すると、そのまま南進、アルプス山脈に向かい、その時、歴史が動きました。

これがいわゆる『ハンニバルのアルプス越え』で、その日から約2000年後、ナポレオンが自分をハンニバルになぞらえてアルプスを越えました。

アルプス越えは壮絶を極め、兵力の半数以上が犠牲になったと言われています。しかし、ハンニバルは卓抜した指揮能力と気力によって、カルタゴ軍にアルプスを越えさせ、イタリア半島に入りました。イタリアの大地を見下ろした時、ハンニバルは配下の将兵に言いました。「これがお前達の土地になるのだぞ」と。

2万6000のカルタゴ軍は南下を開始すると、ティキヌスの地でローマ軍騎兵隊を撃破、トレビア河の河岸でローマ軍と衝突しました。

ハンニバルは謀略によって、ローマ軍に冷たい冬の河を渡らせ、カルタゴ軍は強力な騎兵隊を駆使して、戦場の主導権を握り、圧倒的な騎兵戦術で疲弊したローマ軍に大打撃を与え、退却させました。

カルタゴ軍は更に南下を進め、トラシメヌス湖畔の戦いにて、今度はローマ軍を奇襲しました。

ハンニバルはローマ軍の情報網を攪乱し、2つのローマ軍を南北に分断、味方の姿を巧みに隠しました。その後、ハンニバルは南のローマ軍(フラミニウス部隊)に対する奇襲攻撃を命令、森林から突如として現れたカルタゴ軍は、フラミニウス部隊を左側面から押し込み、右側面に湖を控えたローマ軍は壊滅しました。その後、生き残った側のローマ軍は撤退します。

その後の数年間、カルタゴ軍が補給路を攪乱され、ファビウス率いるローマ軍が戦いを挑まなくなったことでハンニバルは悩まされますが、ファビウスがハンニバルの策略によって失脚した後、主戦派のウァロが戦地へ向かい、カンナエで激突しました。

カンナエの会戦では、5万のカルタゴ軍は凹陣形を取り、騎兵によって敵の背後を固め、8万のローマ軍を完全に包囲、殲滅しました。生きてローマ市の地を踏めた者は数えるほどしかいなかったと言われています。

これらの勝利によって、傭兵として雇われた外国人達は、ハンニバルという一人の男に惚れ込んだものと考えられます。自分達の上司が極めて優れ、魅力的な人物だったとすれば、無理もないことでしょう。

更にハンニバルは、兵士に対して理解にも似た行動を幾度となくとっていました。司令官としての職務(戦後処理、部隊編制、作戦計画、謀略など)をたった一人でこなした後、もちろん寝床につく。しかし、その寝床というのは哨兵の兵舎だったのです。つまり、野営陣地の門番が寝泊りする場所で寝ていました。そこは、もし敵の攻撃を受ければ、一番死にやすい場所なのです。

兵士達にとっては、緊張しつつも心強い限りだったことでしょう。しかも、豪華なベッドなどあるはずもなく、兵士達とそう変わらない粗末な毛布にくるまって、地べたに寝転がっていたと伝えられています。育ちの良い青年(ハンニバルはカルタゴの名門貴族)がこのような行動を取れば、古参兵たちも感心せずにはいられなかったでしょう。

しかし、ローマ側にも一人の英雄が登場しました。プブリウス・コルネリウス・スキピオその人です。彼は異例の若さで軍の司令権を掌握すると、イベリア半島(現在のスペイン、ポルトガル)に逆進攻、ハンニバルの根拠地カルタゴ・ノヴァが陥落し、カルタゴの従属国にして騎兵の名産地ヌミディアを味方につけました。

そして、補給のために出撃したハンニバルの弟ハスドルバルは、メタウルスの地にてローマ軍ネロ部隊の奇襲に遭って戦死、末弟のマゴも戦傷がもとで撤退中に息を引き取りました。ハンニバルはこの報告を聞いた時、この戦争に負けることを覚悟したと言われています。

かくして、カルタゴ本国は貴族達の利権や金勘定どころではなくなり、ハンニバルを呼び戻すかどうかで揉めました。しかし、状況が全く読めていない政治指導者達は静観を決め込み、シチリア島防衛に失敗した軍の再建にだけ着手しました。

スキピオ軍がカルタゴに迫った時、バグブラデスの戦いでカルタゴ軍の最終防衛ラインは突破され、ハンニバルは、やっと呼び戻されることになりました。

……2に続く。

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